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★ アトランティックレコード時代 ★
1966年(当時アメリカのソウル/R&B界は南部のソウルサウンドが勢力があった。)
ニューヨークのアトランティックレコードと契約。
プロデューサージェリーウェクスラーは父親のアルバムで歌っていたアレサに注目、CBS時代の作品も欠かさず聴いていた彼は語る。
「ボクは当時アレサが黒人の歌手で最高だと知っていたからね。コロンビアで録音した作品であの声を知っていた。彼らは彼女を間違ったふうに録音したといわれているけど、彼女の最良の作品のいくつかは彼らと作ったものさ。彼女の能力を示したという点ではね。」
(1977年イギリスの雑誌『BLUES&SOUL』インタビューより)
CBS時代のアレサが自分の個性を見失ってないかと思い教会へ連れていき、彼女本来のゴスペルを生かした作品をつくった。
『彼女をピアノに座らせたんだ。そして、彼女を教会に連れ戻したんだ』
その結果、『I NEVER LOVED A MAN』ができる。
プロデューサーのジェフベクストラー、アレンジャーのアリフマーディンとの付き合いがはじまった。
1967年1月アラバナの南部マスルショールズの”FAME STUDIOS”で初吹き込み。(白人がブルースにのめりこんでいたころ)2月にはアトランティックのための最初のニューヨークセッションを終えようとしていた。
1967年、『 I NEVER LOVED A MAN(THE WAY I LOVE YOU)』でデビュー。アレサ25歳の時。
RONNIE SHANNON作。プロデュースはジェリーワクスラー。アレンジャーはマリフ。
67年3月11日にソウルチャートに登場し、合計14週間チャートされゴールドレコードの売り上げを記録。
R&Bシンガーとして”LADY SOUL”の女王の座に。
(WHITNEYは『魂の奥深いところから・・・・まさにQUEEN OF SOULよ。KITH RICHARDSは『彼女の声は偉大な自然な楽器だよ。とアレサを讃える)
67年『NATURAL WOMAN』のジャケットでアフロ。当時、アフロは公民権運動のスローガン『BLACK IS BEAUTIFUL』を表したといえるが、色がブロンズということで話題となった。1967年、雑誌『EBONY』のインタビューでは
『父は音楽におけるタイミングのセンスを与えくれた。タイミングは全てにおいてとっても大事なのよ。』
1968、69、70年と3年続けてグラミー賞最優秀R&B女性歌手賞を。
デトロイトFM局のDJはこんな文章をかいた。
「デトロイト市民にとって1968年の2月の金曜日は決して忘れることができないだろう。デトロイト市長はこの日を『アレサの金曜日』と名付けると宣言した。それはコポ・ホールであった。数知れないファンが会場を埋めていた。キャッシュボックスとビルボードとレコードワールドがきていた。なぜならアレサは3誌の『最優秀R&B女性歌手』に選ばれ、さらに『今年の最優秀歌手』にも選ばれていたからだ。マーチン・ルーサー・キング牧師も壇上に上がっていた。それが私たちが生前のキング牧師をみる最後になってしまった・・・・。さまざまの受賞を終えてアレサは歌った。90分間あらゆるヒットナンバーを歌ったんだ!信じられないよ!!!!なんて夜だったんだ!!!!!』
アメリカの代表的週刊誌「TIME」は68年6月28日に”THE
SOUND OF SOUL”とういう特別記事をのせ”SOUL"の言葉の持つ意味、音楽を紹介。アレサはその表紙を飾り、大きくとりあげられた。(黒人の人気雑誌『ebony』や「SATURDAY
EVENIN' NEWS」でとりあげられるならともかく、当時ではすごいこと!この頃にSOULMUSICはアメリカ社会に認められた。
アレサは黒人のブラザー&シスターだけでなく、白人にもよびかける姿勢を見せ始めた。
その第一弾!が1968年リリースの『ARETHA NOW』(67末〜68に録音)CDに収録された順にきいていくとその意図が見える。
1969年には『IN PARIS』『SOUL'69』『ARETHA 'S GOLD』『THIS
GIRL'S IN LOVE WITH YOU』『SPIRIT IN THE DARK』『ARETHA 'S GREATEST
HITS』をリリー−ス。
1972年には『最優秀ソウル・ゴスペル賞』10回目の賞を。
ゴールドレコードは20枚をこえる。 ジェリーワクスラーは『QUEEN OF SOUL』の称号を決定付けた人となった。
以後79年までのアトランティック時代は彼がプロデュースすることになる。
1972年『ARETHA LIVE IN FILMORE WEST 』
フィルモアウェストでのライブで5000人のハコに一万人も来た!!
どうしても聞きたくてこっそり行ったレイチャールズをステージにあげ”SPRIT IN THE DARK”をデュエット。
※(レイチャールズはアレサのことを『天才的な創造者』と語る)
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ゴスペルアルバム1972年『AMAZING
GRACE』
クリーブランド牧師のいるロスの教会で録音したこのライブ盤は大衆の目をゴスペルにむけさせた貴重な皿。
※(ビデオ『QUEEN OF SOUL ARETHA FLANKLIN』のインタビューで、『ステージにたつ大切なものを教会から教わった。お客さんとのコミュニケーションも。これは大切なことで、私が感じてもみんなに伝わってなかったら何かを失うことと同じ。お客さんの気持ちになって初めて私も何か大切なものを得ることができる。』と語っている。)
1972年クインシージョーンズ とJAZZフレーバーの『HEY NOW HEY』
1976年 CURTIS
MAYFIELDとGOSPEL/SOULフレーバーの『SPARKLE』※カーティスについてはコチラ
『ALMIGHTY FIRE』
VAN MACCOYと『LA DIVA/ラ・ディヴァ』をリリース。
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★ アリスタ時代 ★
1980年、アリスタに移籍。
80年代、アリスタ時代は社長クライブデイビスが自らアレサの楽曲を選び、プロデューサーも選んだ。彼はいう。
『彼女はユニークだ。彼女そのものが歴史。それを享受すべきだ。伝説だ。彼女は生まれながらに天才性をもっている。一緒に仕事をするのは光栄なこと。彼女の復活劇は私にとってもおおきな喜び。まさに『QUEEN
OF SOUL』であり、彼女に関する全てが喜びだ。誰も彼女をカテゴライズすることなどできない』
派手なメイクをし、アイドルのイメージになった・・・・・当時はやっていたR&B、DANCE MUSICを中心に。
このころ映画「BLUES BROTHERS」で”FREEDOM”をうたう。
80年自宅に入った強盗をつかまえようとした父親C.L.フランクリンがピストルで撃たれた。
アレサの妹は、家族ぐるみで親しかったステイプルシンガーズのメルウ"ィスステイプルズから父が撃たれたことを電話で知らされた。父はそのまま病床に伏する。
1980年チャックジャクソンと『ARETHA』
1981年アリフマーディンとジャンルを越えたスケールの大きいサウンドで『LOVE ALL THE HURT AWAY/想い出の航路』を発表
同 年12月ロスのロキシーで久しぶりにライブを。滅多に見れない彼女のライブには、なんと観客でスティービーワンダー、マイケルジャクソン、ダイアナロスも来ていた!!彼らでさえチケットとるのが難しかったらしい。
1982年6月のマディソン公演も売り切れ。
ちなみに、レコーディング風景をちょっとでも垣間みたい音楽関係者が多く、同じスタジオにたまたまいても、彼女のレコーディングブースからは一切、音がもれないようになっているらしい。だからこそ、レコーディング参加の依頼があれば、どんな大物もみんな大喜びでかけつけた。
1982年ルーサーバンドロス(N.Y出身のアレンジャー/コンポーザー/プロデューサー/シンガー)とブラックコンテンポラリーにも挑戦。
※ ルーサーについてー
『NEVER TOO MUCH』で高い評価を得ている。1974年からバックボーカリスト、CMシンガーとしてキャリアスタート。
デヴィットボウイの録音に参加して才能を認められ、編曲、作品も提供している。その後も、ミュージカル『ザ・ウィズ』の音楽や、バープラ・ストライザンドとドナサマーのデュエット『NO
MORE TEARS』のアレンジも。クインシージョーンズ、ベッドミドラー、ロバータフラック、カーリーサイモンの作品に参加。ソロシンガーとして、ロバータフラック,コモドアーズのツアーに参加。
実はアレサと仕事をする前に「ボクの大好きなアーティストはディオンヌワーウィック、アレサフランクリン、ダイアナロス。特にアレサとは仕事がしてみたい。彼女はR&Bの先駆者だし、完成させた人でもあるからね。全く偉大な人だよ」と語っている。だから仕事の熱の入れようは凄かった。
1982年にリリースした『JUMP TO IT』ではプロデュース/編曲/セッションに参加。マイルスデイヴィスバンドで頭角を表していたマーカスミラーとの共作を含めて4曲。アレサのために新曲もかいた。アレサも自作で1曲、スモーキーロビンソンも曲を提供。バックボーカルには、シシ・ヒューストン、フィリップベイリー、ブレンダ・ホワイト、ダーレン・ラブんなど。もちろんルーサーも加わり、ゴスペルの伝統コールアンドレスポンスを。レコーディングニューヨーク・ロス・デトロイトの3か所で行われた
脳こうそくで倒れたが、回復。2003年にはLIVEアルバムもリリース。病院の寝床でアレサがで歌って励まして、そのおかげか現在回復にむかっている。 |
1983年、アルバム『GET IT RIGHT』の「GIVIN IN」では2人の息子(テッドとの息子)クラレンス・フランクリンが歌詞をかき、テディ・フランクリン・ホワイトがギターを弾いている。
1984年、最大に影響をうけていた父親が他界。
1985年、デトロイトのハスラーで夫であったテッドホワイトとうまくいかず苦悩の日々。
(マネージャーでもあった彼は、人前で彼女をぶん殴ったこともあるらしい。)
結局結婚生活は7年で終止符をうたれた。彼女は気持的にトラブルがあったらスタジオに入らなかった。もちろん夫テッドと別れた時も。
”CALL ME”はそんな夫へむけて歌っている曲。
『WHO'S
ZZOOMIN'WHO』('85/7)リリース
『ARETHA/JUMPIN'JACK CRASH』('86/10)リリース
アトランティック初期の頃太っていたアレサも後半ダイエットをしスリムに。
ミュージシャンのケンカニングハムと結婚して一児をもうけ、さらに俳優のグリンターマンと再婚。
再婚したグリンターマンと別れ、彼女は再びロサンジェルスからテディ・エディ・クラレンス・カルビン・息子たちとデトロイトに移住。
もちろん教会もロスから、父親が拠点としていたデトロイトの教会へと移す。
19 87年7月27日、28日、30日にデトロイトのニューベセルバプティスト教会でライブ録音
『ONE ROAD,ONE FADCE,ONE BAPTISM』で今の地位を築いたのは教会のおかげだと言っている。
父親はこの教会でさかんにプリーチしていたし、アレサも子供の頃歌いはじめたのもこの教会。
60年コロンビア入社以来ゴスペルアルバムを作ってなかったが、15年間隔で作った。
72年AMAZING GRACE以来15年ぶりのこのアルバムは前回同様、教会でのライブ録音で、当代一流のゴスペルアーティストも総出演。
父フランクリン牧師の好きな”PLESIOUS ROARD”も歌う。
キャッシュボックスアワードを受賞。POP,SINGLE,ALUBUM,R&B全ての賞を総なめ。
1988年ビデオ『QUEENOF THE SOUL』発売
『 TROUGH THE STORM』(89/4)』
『WHATYOU SEE IS WHAT YOU SWEAT』(91/7)
『A ROSE IS STILL A ROSE』(98)
PUFF DADDYやJERMAIN DUPRIなどHIPHOPのクリエイタ−がプロデュース。タイトルナンバーはローリンがプロデュースし話題に。
『SO
DAMM HAPPY』(2003)
現在も『QUEEN OF SOUL』としてマイクを手にしている。
偉大なるQUEEN OF SOUL、ARETHA FRANKLINに愛を込めて
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